自分の思う「裏表のない人」になるために

エッセイ

今日は、この歳になっても人付き合いが苦手な私の独り言のようなこと(ボヤきとも言う(笑))を書かせていただきたいと思います。

いい歳してまだこんなことをあれこれ考えている人がいるんだなぁ~と、半笑いくらいで読んでいただけたら幸いです。笑

 

私は出来ることなら、あまり裏表のない人でいたいなぁ~と思ったりします。

でも、「裏表が無い」をそのままの言葉で捕らえて実行すると、思っていることをそのまま言葉にしたり、何でも自分の思うままにやりたいようにやることになるはず。

そして、もしかしたら世の中にはそのような人を「まさに裏表がなくていいよねっ!」ってことで良しとして好む人もいるかもしれません。

でも、私がなりたいと思う裏表のない人とは、どうも何かが違います。

 

だってね、例えばの話ですが、もしも私が誰かに「私は裏表が無い性格だから!」とか言われて、それを免罪符のように言いたい事を言いたいようにズケズケ言われたり、やりたい事を好き勝手にされてたとしたら、十中八九私はその人のことちょっと怖いと思っちゃう。

君子危うきに近寄らず?触らぬ神に祟りなし?参らぬ仏に罰は当たらぬ?的な。

出来るだけ関わりたくないですね。

となると、私が思う裏表のない人ってなんだろう?と、茶をしばきながら考えてみました。

 

漠然とし過ぎていてなかなか一言で「こんな人です!」とは言えないのだけど、まずは「人に迷惑をかけない」ってのが、大前提になってくるのかなって思いますね。

思っていることをそのまま言葉にしたり、何でも自分の思うままにやりたいようにやることは、裏表が無い人とただの自己中とあまりにも表裏一体すぎじゃありませんか。

だとしたら、人に迷惑をかけてまで裏表のない人にはなりたいとは思わないなぁ、私は。

 

つまり、私が思う裏表無い人と言うのは、「相手に対してそれなりに気を使えて、それなりに礼儀をわきまえている人」でないと、私の思う裏表のない人にはなれないんじゃないかと考えてみたり。

でも、ここでふと私の脳裏によぎるのは、過去のブログ記事にも書きましたけど ⇩ 、私は毒親育ちなので、毒親育ちの特徴で自分自身の首を絞めてしまっていた過去があります。

「自分よりも他人を優先してしまう」クセに気付いた今は、他人に気を使うのもほどほどにして、もっと自分を大切にしてあげることを心がけて生きています。

ちゃんと心がけていないと、毒親育ちはすぐに自分のことを後回しにしてしまうので(^^;

 

ということで、そんな私が「相手に対してそれなりに気を使えて、それなりに礼儀をわきまえている人」を心がけようとするのであれば、その「それなりに」がポイントになりそうだなと思いました。

自分よりも他人を優先して気を使い過ぎて、過去の自分に逆戻りしたくはないですし。

かと言って、裏表のない人過ぎて傍若無人にもなりたくないですし。

人生も後半に突入したこの歳になって今更かもしれませんけど、私はこれから「それなりに」の境界線を探りながら人と接していくことが、私が思う「裏表のない人」に近づける近道なのではないかと思いました。

ここまでは譲れるけど、ここからは譲れない、毒親育ちが故にこの境界線がずっと曖昧なまま生きて来たのでね、これからは自分の中の境界線を探しつつ、それなりにでいいから気を使えて、それなりにでいいから礼儀をわきまえられれば、自分を犠牲にしてしまうことも、他人に無理に作った偽の笑顔を見せることも、少なくなるような気がします。

人生100年時代なのであれば、私の人生はあと45年。

そうして生きて行くうちに、自然と自分がなりたい「裏表のない人」に近づけるといいな。

エッセイ

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