配慮とか謙遜とか幸せとか

エッセイ

最近、「素直に嬉しいです」と言う言葉をよく聞くなぁと思っていて、そこでなんとなく私の頭の片隅に小さな「?」が出現していることに気付いたんですよね。

その私の小さな「?」って何だろう?と、茶をしばきながらしばらくぼんやりと考えました。

「素直に」は見えない圧力へのワンクッション?

私は「素直に嬉しいです」の何に引っ掛かっているんだろう?

そう思って、「素直に嬉しいです…素直に嬉しいです…」一人で頭の中でぶつぶつとリピートしているうちに、「嬉しいです」と「素直に嬉しいです」は何が違うのかな?と考えました。

そして、ああ~そうか、私の「?」はこれだったのか~と思ったのは

「『素直に嬉しいです』と言うことは。素直にならなければ『嬉しいです』ってなかなか言いづらいことなのかな?」

と薄っすら感じたからでした。

「素直に」を付けることで、あけすけに「嬉しいです」と言うことにワンクッション置いている感じがしていたとでも言いますかね。

嬉しく思うことですら遠慮しなければならないのならば、私はそれはなんだかなと思うのです。

「素直に」は、言った側の人が、嬉しいと思う自分の裏や見えない所で嬉しいと思えなかった人がいることへの配慮だったり、優しさだったりするならば、決して悪いことでは無いと思います。

だけど、ちょっとギスギスした世の中とか風潮が見えない圧力となって、人がただ単純に嬉しく喜ぶことでさえも気を使わせて配慮させている状況が「素直に嬉しいです」の言葉に見え隠れしたような気がして、寂しく感じたのです。

謙遜と自慢の境界線

思うに人って、なんとなく相手に対して配慮して、うっかりすると謙遜ばかりしてしまう気がします。

私なんて全然無理だよ~とか、全然ダメだったよ~とか、うちの旦那・うちの嫁・うちの子なんてこんなだよ~とか。

謙遜なのか愚痴なのか分からないような謙遜。笑

でも、実際は全然ダメじゃなかったり、結果的にしっかり順調だったりすることが往々にしてあって、それを後出しジャンケンのように聞かされると、謙遜は途端に謙遜ではなくなり、能ある鷹は爪を隠すに一変したりすることも。笑

それが行き過ぎると、逆に自慢のように聞こえてくることもあったりするから、やたら謙遜するばかりが良いわけではなくて、謙遜と自慢の境界線って絶妙な難しさがあるなと思ってみたり。

お互い「幸せよね」と言える気楽さ

なので私は、私なんて~うちの家族なんて~と謙遜しながらこっそり幸せでいるよりも、幸せなら幸せである話をしたらいいのになと思ったりしています。

とある私の知人は、素直に自分は幸せであると話す人です。

頑張った事に関しては、私頑張ったんだよ!と話すし。

チャレンジしている事は、今チャレンジしてるんだ!と話すし。

家族の言葉に幸せを感じたら、率直に「私は幸せだと思う」と言うし。

だから私も素直に、自分の幸せについて話をすことが出来る人でもあります。

人と話す時、配慮も謙遜も皆無では人間関係は成り立たないものだから、大切なことではあります。

でも、お互いに「幸せよね」とあけすけに言える人、一緒にいて心地良いのは、そんなところなんだろうな。

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