友達って何だろう?と言う疑問

エッセイ

私は50代にもなって未だに「友達って何だろう?」と考えます。

 

学生の頃から知り合いで、会ったり話したりする機会はもう無くなったけど、縁が切れていなければ、友達なのか?

それとも、その距離感なのであれば、今はもう友達と言うより知人と言うべきなのか?

今現在、私にも友達と言わせてもらっている人が極めて少数いますけど、その人たちだって、もしかしたらこの先ほとんど会うことも話すことも無くなってそのまま疎遠になる可能性だって無きにしも非ずだと思うと、結局のところ、私には友達がいるのか?いないのか?自分でも分からないです。

 

昔は、私にも友達がいてくれたらいいなぁと思いましたし、私のことを友達だと思ってくれる人がいたら嬉しいなぁと思っていた頃もありました。

でもその結果、私は友達幻想に振り回されてしまったんですね。

「友達は大切にしなければ」「友達のために私に出来ることがあればやってあげよう」そうやって自分のことより友達のことを優先することも度々で、30代半ば頃になって、私は友達にとって都合の良い存在になってしまっていることに気づきました。

もしかしたら、友達は本気で私のことを友達と言ってくれていたかもしれません。

でもね、友達関係においてギブ&テイクと言うとちょっと嫌な言い方になってしまいますが、無意識で何の悪気も無かったかもしれないけれどギブを求めてばかりになった友人と、ギブが続いていた自分に気づいた時に、それはもう友達と言える間柄ではないのかなと思いましたし、そうなったのは自分のせいでもあるなと思いました。

良き友達であるためにと思って自分がやってきたことで、いつの間にか自分が思っていたような友達関係ではなくなっていました。

そんな自分に気づいた頃、「友達がずっと友達でいるわけではないし、絶対にずっと友達でいる必要もないんだな」ってことも分かりました。

 

人間って、木みたいなものなのかなと思ったのです。

人間、産まれた時は木の根っこの先端の細根の部分にいて、生まれた家も、生まれた日も、生まれた場所もみんな色々でバラバラなんだけど。

少しずつ成長して幼稚園・小学校・中学校になると、その時に家がたまたま近所でたまたま同い年だった人たちが、一旦は木の幹みたいに同じ学校にギュッと集結させられて成長していって。

で、さらに成長すると、進学とか、就職とかで、それぞれの太い枝に枝分かれして。

もっと年齢を重ねると、進学先で学部や専攻科目が分かれたり、仕事でキャリアを積む人がいたり、専門職の道に進んだり、結婚したり、出産したり、海外へ行ったり、地元に戻ったりなどなど、さらに細かく枝分かれして行ったり、もしかしたら、途中で枝が折れてしまう人もいるかもしれません。

でも、そうやって枝分かれしていった結果が、人生人それぞれと言うことになるのだろうし、今の自分がいるのですよね。

だから、枝分かれする前の太い木の幹の頃に一緒にいた人が、枝分かれしていった先に一緒にいなかったとしても、それはけっこう当たり前のことなのかもと思えましたし、それはそれで良いではないかと思えてきました。

そうなると、どなたかを改まって「友達」と言う言葉でカテゴライズする必要はないかなと思う様になりましたし、幸か不幸か私自身も「友達」にカテゴライズされなくても大丈夫な人間だと分かり、そのまま今に至っています。

 

で、話は一周して戻ってきて、結局のところ、友達ってなんだろう?

細かく枝分かれする前の記憶を共有できる人のことなのか。

それとも、枝分かれした今を一緒に過ごせる人のことなのか。

もしくはその両方で、木の幹の頃の記憶を共有できて枝分かれした今も一緒に過ごせている人のことなのか。

未だに分からずじまいなのです。笑

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