私の父の故郷は、福島県のとある海沿いの町です。
父は就職と同時に地元を離れて今も神奈川県で暮らしていますが、父の実家である本家は父の兄(以下、叔父夫婦)が継いで、他の親戚たちも本家からさほど離れていな町で暮らしていました。
津波で消えた海沿いの町
でも、東日本大震災の時、海から徒歩1分の所にあった本家は海沿いの町ごと津波で跡形も無く流されてしまい、家業の田畑も全て海水に埋まってしまいました。
幸い叔父夫婦は、黒い壁のように見えたと言う津波からたまたま遊びに来ていた娘の車に飛び乗って逃げ切り無事でしたが、とにかく逃げるのが精一杯で、当初はお財布すらも何も無い状況だったとのこと。
しばらくして避難所から仮設住宅へ移った頃、何でもいいから家の物を探したいと思ったようですが、海沿いの小さな町はがれきの撤去も進まなくて、家があった辺りへ近づくことも出来なかったそうです。
ちなみに、本家より少し内陸にあった他の親戚たちの家は、地震の影響を受けつつも津波は到達せず家は無事に残ったので、避難所からすぐに戻って何とか自宅で暮らし始めたのでした。
地元とは
震災から数年後、お正月に実家へ挨拶に行った時の父との会話を少しかいつまんで書きます。
私 : 叔父夫婦は、仮設住宅を出て近所の親戚の家とかへは行かないの?
父 : うん、行かないみたいだ。
私 : じゃ、東京の息子の所へも行かないの?
父 : うん、たぶん出てこないな、頼らないよ。
・・・・やっぱ、みんな仲間があっちにいるし、お墓もあるからな。
・・・・今から知らない所(東京)なんか来れないよ、地元だからな、離れないよ、きっと。
言葉少なな父と話しながら、色々考えさせられました。
父は、東京で暮らす息子の所に「出てこないな」と言いました。
この言葉、たぶん父や親戚たちの感覚なんだろうなと感じました。
地元を離れる = 地元を出ていく みたいな。
私的には、もう家も田畑も何もかも全て津波で流されてしまったのだから、いっそ復興がなかなか進まない地元から離れてしばらくの間だけでも子供の所で暮らせば、衣食住や病院のことも、色々と助かると思ったんですけどね。
でも、なんというか、私は神奈川県で生まれ物心ついた頃からずっと横浜市で育ったので、私にとっては横浜市が一応「地元」にはなると思うんだけど、何となく父や親戚たちの言う「地元」と重みが違う気がしたのです。
実家のある町はいわゆるニュータウンで、先に電車の駅を作って、その周辺を切り開いて道を作って、後から住宅が増えていったような感じなので、色んな出身地の方が引っ越してきて暮らしていて、元々ここが地元ですよと言う人はほとんどいなかったんですよね。
それに比べて父の故郷は、隣近所みなさん代々その地でずっと暮らしてきて、生まれ育って家業と実家を継いだような叔父夫婦が、代々のお墓を置いたまま地元を離れると言うことは、私が思う以上に選択肢に無かったのかもしれません。
そしてこれが、私の思う「本当の地元」で生まれ育ってきた叔父夫婦の生き方なのかなと思ってみたり。
5年後の父の故郷
この写真は、Google Earthで見た東日本大震災から5年後の父の故郷です。
右側が海、左側へ進むと田畑が広がっていました。
あれから5年。
もう5年。
でも、まだ5年だったのかな。
がれきは撤去されたものの、まだ更地で何もない状態。
復興なんてまだまだだよねって感じでした。
この頃、叔父夫婦は内陸の市街地の方に新しく家を建設して引っ越し、高齢なこともあって家業も引退したと聞きました。
まさかのソーラパネル畑
東日本大震災からまる12年が経とうとしていた今年の2月、トルコで大地震が発生したニュースを目にして、やはり他人ごとではない感じがしたし、ふと、父の故郷のことを思い出しました。
そして、父の故郷はその後どうなっているんだろう?と気になって久々にGoogle Earthで見てみたら、なんとなく予想はしていましたが町は復興していなかった、と言うか、元の町や田畑の景色には戻すことなく一面のソーラーパネル畑になっていたのです。
正直、驚きましたね。
あんなに雪が降る海沿いの地域にソーラーパネル畑を作ったところで、冬の間毎日雪下ろし作業とかちゃんとしてるの?
夏の間は潮風でベタベタするのに、ソーラーパネル錆びたりしないの?
と、色々と疑問に思いつつ。
無機質なパネルが広がる景色に、ここが地元ではない私でさえも、何となく寂しく感じたのでした。
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