核家族であることが毒親を加速させた原因

毒親について

ブログを書き始めたばかりの頃のある日、私はふと「母はいったいいつから毒親だったんだろう?」なんて思って、私の中の古い記憶を引っ張り出してきて、その答えを考えてみました。

そしてその結果はブログにも書いた通り、私が幼稚園に入るか入らないかくらいの幼少期からだったわけですが、でもそれは、大人になった今の私だから分かることであって、幼少期の頃の当時の私には絶対に分からなかったことでもあります。

実際、私は小学校の高学年になるくらいまで、母は異常だと認識はしていなかったのです。

では、そんな私が、どうして母の異常さを認識し始めたのか?について、今日はまた昔の記憶を手繰り寄せながら考えてみたいと思います。

なぜ私は高学年になるまで母は異常だと認識しなかったのか?

なんで私は、高学年になるまで母の異常さを認識しなかったのか?と考えてみると、それは、母がまだ毒親全開ではなかったから、だと思います。

では、なぜ毒親全開ではなかったのか?と考えると、まず真っ先に思い浮かぶ理由としては、まだ私が幼すぎて母の言いなりの思うままに出来ていたからではないかと思います。

まだ私が母の目の行き届く状況下にいたので、毒親全開になる必要がなかったのでしょう。

そして2つめの理由は、たぶん、社宅暮らしで両親と私の3人家族の生活の周りに沢山の人がいて、沢山の人との関わりがあったからだと思います。

毒親は、他人の目とか他人からの自分の評価をとても気にするので、常識ある優しい親として見られたいがために、あからさまに理不尽は言動をしなかったと言いますか、出来なかったのでしょう。

そう思うと、私が幼少の頃に家族の周りに沢山の人がいてくれたことは、今となっては幸いなことだったのだろうと思います。

きっかけは引っ越し

私が今現在も両親が住んでいる神奈川県の実家に引っ越してきたのは、小学1年生の3学期があともう少し(あと10日くらいだったような…)で終わろうとしていた頃だったと記憶しています。

子供は親の都合に従うだけだったので当時は何とも思いませんでしたけど、今思えば、なんでそんな中途半端な時に引っ越ししたんだろう?って、不思議です。

引っ越す前は、父が勤めていた会社の社宅で暮らしていました。

社宅はさほど世帯数が多くない団地のようで、社宅なので当たり前ですけど、周りの家は父と同じ会社に勤めるお父さんばかりで、私より年上のお兄ちゃんお姉やんから赤ちゃんまで沢山の子供たちがいました。

一人っ子で兄妹がいなかった私でも、社宅前の広場に出さえすればいつだって遊び相手には事欠かなかったですし、夏になれば一緒に花火をやったり、ちょっとしたイベントも楽しめましたし、そうやって齢の違う子供たちと過ごすうちに歳の違う子たちとの接し方とか関わり方なんかも自然と学べていたような気がします。

でも、引っ越した先の実家では、私は幼稚園の頃から顔見知りだった小学校の友達とも離れ、社宅の友達とも離れ、前から知っている友達が一人もいなくなりました。

そして両親も、結婚してそれぞれの地元から離れていたので、もちろん近所に親戚などもいないですし、社宅のような身近な家族もいなくなり、新居の実家は周りは知らない人ばかりのまさに核家族となりました。

そして、近所に親戚もいなければ、同じ社宅で毎日のように顔を合わせて子供同士を遊ばせていた近所の人たちの目もなくなり、良くも悪くも誰にも介入されない状態になった一軒家は、毒親気質だった母にとっては気兼ねなく本領を発揮できる場となったのでしょう。

そう考えると、核家族になったこと、核家族であることこそが、母の毒親を加速させた原因だったと思うのです。

毒親全開で母の異常さを認識

こうして、引っ越しをしてから、そして私が1つまた1つと歳を重ねて成長して母に絶対服従の人形ではなくなって行くにつれて、母の毒親っぷりが全開となっていきました

そして小学校の高学年になる頃には、私も母の異常さを認識するまでになったのです。

人の目を気にしなくて済むようになった母は怖いものなしとでも言いますか、もう毒親っぷりを隠そうともしなくなり、成長する私の生活や気持ちや交友関係などなど全てに干渉してきて、私の人生そのものを自分の思い通りにさせようとしてきました。

そして、家の中のルールは母が基準となりそんな母が正しかろうと間違ったものであろうと他人に知られることは無いですし、誰に注意をされることもないですし、「子供は親の言うことを聞いて当たり前」「親の言う通りにしないのは許さない」「自分だけが正しい」「自分は間違っているワケない」と信じて疑わない母が出来上がりました。

こうして私は、実家と言うカゴの中で誰の助けを得ることもできなくて、人知れず苦しむ時間が始まったのでした。

 

近年、子供の虐待死などのニュースを目にする度に、他人が介入しない・出来ない核家族の暮らしの、逃げ場のない追い詰められる感じを私は大なり小なり知っているので、自分と重ね合わせて苦しくもなりますし、許せない気持ちにもなります。

私が受けたのは「精神的な攻撃」だったので、自分で命を絶ちさえしなければ命を落とすことはなかったけれど、もしも受けたのが「身体的な攻撃」だったとしたら、ニュースで目にする虐待などの不幸な事件は、私にも起こりえた可能性は0ではなかっただろうと薄っすら頭に浮かんだりします。

幼い子供にとっては親は絶対的な存在で、逆らうことも逃げることも思いもよらないと言うか、出来ないだろうなと思うのです。

だから、「昔は、近所に必ず1人や2人、他人だろうと何だろうと分け隔てなく叱ってくれるおじいさんやおばあさんがいたもんでね。」なんて昔話を耳にすると、それだけ昔は隣近所の交流もあって子供たちも地域ぐるみで育てられていたんだろうなと思いますし、今の核家族化の中で苦しんでいる子供たちにとっては、むしろ昔の方が良い時代だったんじゃないかなと思ったりします。

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